Thursday, February 3, 2011

民主主義は仮象である

 民主主義は仮象である

 そもそもの民主主義の発達はルソーの「社会契約論」に帰せられる。彼は若い時分、積極的に政治に関与した。ディドロやダランベールらの百家全書家と共にフランス革命の切欠を作った。彼は、晩年、激しい被害妄想、追跡妄想の廃人になったが、それでも彼の理想主義は今でも生きている。その根本理由として挙げられるのは、人間本性である。人間とはとかく理想を求める。それに呼応した諸々の各国が彼の著作から、憲法を製作した。これは、現代の日本国憲法にも根強く残っている。だが、私は反駁する。基本的人権や自由意思(スピノザの述べる)は、存在しないことを。私は、巷で大騒ぎをしている民衆を見て、つくづく思う。哀れな乞食どもが騒いでいると。
 
 さて、その原因は何であろうか? それは、彼らの集団的無意識状態に帰せられる。私は、カール・グスタフ・ユングと意を同じくして、民衆の脆弱さを知る。古代ギリシャの賢人ソクラテスさえ、無知な人民の餌食になったではないか! 民衆とは、権威にすがりつく。ここから、導き出せる帰結として、彼らの行為の発端が分かる。要は、子供が他人に罪をなすりつけるのと同じことを今の人々はしている訳だ。
 
 権利を振りかざすには、それ相応の資格がいる。税金や選挙などではだめだ。いみじくも、ショーペンハウアーが述べるとおりに判断力を持つものは稀有な存在なのである。それをさも知った振りをして、自分たちが選んだ政治家たちに野次を飛ばす民衆。なんと、傲慢な行いであろう! それなら、最初から、選挙をしなければ良い。しかし、そうなるとまたもやマルクス主義、社会主義が台頭することになるであろう。そして、どっちつかずの姿勢がまたもや繰り返される。
 
 それなら、かの大日本帝国時代の方がましだ。あの時は、皆が一致団結し、国が一丸となって、敵と戦っていた。人間の本性上、他人の中に自分の姿を見出すと、それに向かって、抵抗する。これは幾千年も変わらない人間の性格である。それから、自分の似姿を他人の中に投影すると、同情の念が沸き、変な協調性が生まれる。その協調性こそが、現代社会の悪しき風潮である。私が述べているのは、真理である。真理とは、どうしても二律背反するものである。したがって、私が述べた人間本性の考察は間違っていない。
 
 民衆とは、所詮、徒党を組まなくては、生きていけないものである。否、ただの機械にすら、劣る劣悪品である。その民衆がなぜ? 意見のまともな交換ができるというのか。彼らは、いかにも高尚な話をしているようである。けれども、内容をじっくりと聞いてほしい。彼らの言っていることは、犯罪心理学の言葉を借りて言えば、拡大された自己中心性であり、たまたま自分の意見と同調した相手としか、話をしない。それが真実である。私の経験上から述べれば、社会性とは民衆に同調することでしかない。さも、学校の授業では、社会性の重要性が問われるが、それは本末転倒である。かの天才たちに社会性があったといえるのであろうか?それは、否である。精神科医のランゲ・アイヒバウムの述べる大衆心理から述べる天才論は間違っている。天才とは、エルンスト・クレッチマーの述べる通り天才個々人の個性に帰せられる。
 
 大衆とは、いつの時代もそうだ。いち早く、民主主義を取り入れた古代ギリシャでもカテリーナの反乱によって、民衆はあっという間に、暴徒と化し、キケロが演説をするまで、彼らは、自由気ままに、犯罪のかぎりを尽くした。これは由々しき事態である。現今でも、社会主義、帝国主義に対する反対の意見が飛びかっているが、もし、それがまかり通っても、民衆は満足しない。彼らは、帝国主義が、民主主義に移行しても、何十年かのうちに、またもや、反乱を起こすであろう。
 
 賢人セネカが、皇帝ネロの教師であったことは有名な話である。彼は、ひたすら倫理を説いた。しかし、ネロはその言葉に耳を傾けずに、最後には、セネカを自殺に追いやった。この時に、民衆が慧眼を以って、積極的に行動していたならば、きっとセネカはもっと多くの著作を後世に残せたことであろう。けれども、先ほど私が述べたとおりに民衆は、権威にすがりつく。それが圧倒的なほど、民衆は容易に屈服する。だが、その権威に屈服する姿勢も長くは続かない。鬱積した感情が、爆発する。その時ばかりは、民衆は、誰これのいかにも有力そうな人物を筆頭に革命を起こすのである。現在にもその兆候が見られる。その良い例は、マクシミリアン・ロベス・ピエールであろう。彼は、如才はなく、一人の友人も作らず、その生涯を終えた。彼は、ルソーを敬愛し、理想主義に走った。それは、軽率な判断であった。最初のうちは、民衆も彼についてきたが、最後には、やはり、民衆の手によって、断罪された。
 
 次に話したいのが、人権についてである。人権とは、人間が生まれながらにもつ権利として、尊重されているが、それは間違いである。日本人の平和ボケにも飽き飽きする。中東を見てみろ!死体が、そこら中に転がっているではないか! その時の日本人の反応も、お決まりのものである。彼らは、その現実を受け入れようとしない。なんたる、独断。嗚咽がする。死体を見ただけで、日本人は悲鳴を上げる。ああ、なんたる、無知!イラク戦線では、私より年下の軍人たちが殺されているではないか! しかし、それも私よりまともな訓練を受けていない輩を送り込むのが悪いのだが。
 
 日本の成年たちに問いたい!金がなければ、国に訴えるのではなく、自分で必死に金をつかみとって来い! イラクに行けば、一日十万円はもらえる。一ヶ月で三百万だ。たったの一ヶ月で大卒の初任給に匹敵するではないか!無論、死ぬのは勝ってだ。まともな、訓練も受けずに戦地に行けば、神経が磨耗し、三日とすらもたないであろう。若者のくせに勇気が足りない。新たな境地を求めて、旅たてばいいではないか。フランス外人部隊、国際刑事警察機構でも今は人員を募集している。だが、私の言っていることは正論ではないかもしれない。そもそも、死地に赴けという考えがいけないのかもしれない。けれども、戦乱の世、武士の世界を思い出してほしい。私がフランス国家憲兵隊を指導しに行った時には、彼らはその強さに驚き、日本語で神風と呼ばれたものだ。
 
 では、フランスの話をしよう。第一次湾岸戦争によって、多数のイスラム系難民が南フランスになだれ込んだ。さすがに彼らも必死だ。武器がなければ、手持ちのナイフで警察官を殺して、拳銃を奪う。さらには、ニースの裏街を通る人々を夜中、惨殺した。その当時のニースでは、朝には血だまりができ、頻繁に救急車が行き来していた。そこにはたして、民主主義は存在するのか? 否である。人間は盲目的な意志の衝動によって生きている。したがって、いくら理想主義を掲げても、殺されるだけだ。その時には、こちらも武力行使しかない。そして、血で血を洗う闘争が起きるのである。その点に関して、日本人は認識が甘くなっている。「五輪の書」に書かれているような鍛錬を行わず、のこのこと夜中に歩き回っている。それでは、殺されても文句は言えない。要約するに、民主主義とは、大衆の脆弱さの上に成り立つものであって、決して良いものではない。かのヒトラーがムッソリーニにニーチェの本を金で製本して送ったように、我々は、今、一人の人間に世界の命運が握られているといっても過言ではない。そもそもの原因は、人間の悪循環にある。社会主義では、民衆が集団催眠状態に罹り、洗脳されている。それとは反対に、民主主義では、民衆が権威を訴え、それを政治家がやりくりしている。そこでだ!民主主義とは、仮象でしかない、という命題が出てくる。仮象とは、哲学的に述べて、悟性の誤差によって生まれる。水中にある棒がゆがんで見えるのも、それが原因である。そして、民衆たちは政治家という仮象に訴えかける。仮象は仮象なりに見えるが、ぼんやりとしか見えない。虚構で、塗り固められた民主主義! 大衆は、政治家の駄法螺にだまされ、選挙に行って、投票をする。これは、マイケル・ムーアも述べていることである。選挙に行かず、家で哲学的思索をしていた方がよっぽどましだ。でも、それでは、社会主義に移行してしまう。結局、私たちは社会主義と民主主義という悪循環から抜け出せないように作られているのである。最終的に、未来は再び、戦乱の世になるであろう。今までの歴史を通観しても、平和が続いた年月は少ない。日本などは、水爆で潰されるであろう。そこで、我々は新たな打開策を練らなければならない。それは、人類の終焉を遅らせることである。確かに、第二次世界大戦は一般的に悪いことだといわれている。だが、それが生の方向に働いたのも確かである。世界中の人口は減り、そのおかげで我々は十分な猶予を取れるようになった。
 
 最後に付言したいのはこう言うことだ。我々は、決して、民主主義という仮象に参与する必要はないし、それを功利主義だと思えばいいのである。資本主義国家であるわが国は目覚しい発展をとげてきた。しかし、そこに一つの言葉が必要ではないか?古代に目をはせて、賢人たちの叡智を学ぶ。それこそが、我々には必要ではないのか?結局、最後の言葉はこうなる。「自然に帰れ!」
 
 民主主義の仮象とは以上のものである。したがって、我々は十分に注意しなければならない。帝国主義に傾くか、それとも民主主義に傾くかを!我々が、人間本性に根ざしているかぎり、使役されることを嫌う。だから、民主主義政権の民衆は政治家に野次を飛ばし、彼らを非難するのである。人とは元来、野性的な一面を持っている。それは、利己心の限りない増大である。犯罪者しかり、一般人にも利己心の限りない上昇が見られる。それは、地獄絵図を見ているようである。人々は、扇動されている事に、うすうす気づいていながら、政権の体制をいったん支持する。しかし、それは狡猾な蛇のようなものである。自分の利益にならないことが勃発するにいたって、人は己の事しか考えなくなる。肉親や友人たちさえも顧みずに、自己中心的な考え方をする。だから、カントは定言的命法という理想主義を掲げ、人々を啓蒙し、悪しき道に進まぬように尽力したのである。確かに、カントの理想主義には、無理な事が多い。それなら、まだしもトルストイの「光あるうちに光の中を歩め」を読んで、考えた方がましである。現今の世では、トルストイの本は自由に手に入るが、当時の旧ロシア帝国では、彼の本は禁書に指定された。裏返しに見れば、またこれも正しいであろう。帝国主義とは、徹頭徹尾、反体制派を嫌う。その証拠にドストエフスキーは、幽閉されたではないか。これとは別の場合は、民主主義に当てはまる。それは、情報の濫用である。人々は、巷に転がる、情報を吟味せずに、自らのものとし、あたかも知識人のように振舞う。ここにこそ、民主主義の弱点はあるのである。憲法で、いくら自由が保障されようとも、判断力の欠如した大衆は、右往左往するだけである。そして、大衆は、まともな異見を唱えず、政治家たちに反駁する。その時の光景は見ものである。政治家は、平身低頭し、大衆に謝り続ける。その繰り返しが始終行われている。私は疑問に思う。大衆に支配された民主主義が、このまま存続するか?田舎?を!当然、結果は決まっている。最終的には、大衆の鬱憤が爆発し、世の中の秩序を乱す。これが、民主主義のけつろである。なお、付加えられることとして、民主主義とは、幻影の最中に見える幻覚に見えるだろう。政治家の横領、自己負担の増加、これらも民衆にとっては、腹立たしいことである。第二次大戦中、ヘルマン・ヘッセは反戦論者であった。そのため、彼の友人たちは次第に放れて言ってしまった。彼は、孤独の中で苦悶する。帝国主義に対する反駁、それが彼の念頭にあった。それから、彼は意欲的な作品を出し、世の風潮を変えようとした。だが、それは早急な判断であった。荒廃した町や村などを見たときに、彼は絶望を覚えた。それから、インドに仏教を習いに行って、新たな境地を会得する事ができたのである。もちろん、カミュも反戦論者であった。彼は、人間の不合理さをつく鋭い警句を発した。だが、当時の権力に屈服され、彼の本は一般の人々にはいきわたらなかった。これとは、反対に、民主主義には自由が許されている。その反面、人々は勝って気ままに行動することになる。再三述べるが、民主主義とは仮象である。その仮面は時が経つにつれてはがれ落ち、下心が見えるようになる。結局、政治家たちも私利使役のために動き、国内外を混乱させる。これは事実だ!決して、何人も目を背けてはいけない。民主主義の政治家たちは、野心に燃え、利益を得ようとする。もちろん、これはリビアなどの場合にも当てはまる。そして、最終的な答えはこうなる。かくも真理は遅くやってくる。人々が、自分自身を深く理解し、鋭い判断を下せるようになれば、理想的な考えだが、あらたなる民主主義が台頭することになろう。

No comments:

Post a Comment