Wednesday, February 2, 2011

戦争

 自然が結局その根底を露呈するのではあるまいか? ゲーテ

 戦争

 戦争とは、昔から好んで、行われてきたものである。ハンニバルの時代から戦争は、すでに起こっている。そもそも、戦争を引き起こしたのは、旧約聖書「創世記」の蛇にまつわる伝説である。蛇が女を誘惑し、不埒にさせた。それが切欠で、旧約聖書「ヨブ記」では、ヨブがなぜ?かも偉大な神が善行を行ってきた私に復讐するのか?という素朴な疑問が投げられている。この話は紀元前のはるか以前の話である。その頃の本を読んでいて、人間の本性はつくづく変わらないと思う。その人間の本性は、服従心と反抗心に満ちている。その結果、新約の時代になって、イエス・キリストは焚刑に処されたのである。
 
 これから、戦乱の世は始まる。名将カエサルの登場、プラトンが予言した哲学者マルクス・アウレーリウスの皇帝就任。あっという間に、世は混沌と化し、人々は血を血で洗う戦闘を始める。海の民の襲来によって、ローマ帝国が滅びても、戦争は終わらなかった。
 次には、教会権力の増長によって、自由な発言は黙殺された。さらに、党派間での血なまぐさい争いが続く。異端者エック・ハルトの本は教会から禁書に指定され、彼の著書は散逸してしまった。この証拠は、今なおカトリック教会、プロテスタントに残っている。もし、それが聞きたいならば、牧師や神父と直接対話すればいい!もちろん、それなりの神学の知識がなければ、話にはついていけないが。
 
 戦争とは、血なまぐさい感慨を思い浮かばせるが、それは違う。それを感じる人々は個体化の原理によって縛られている。個体化の原理に縛られた人々は、人生が一度きりだと思う。だが、それは違う。叡知的性格(イデア)を通じて、万物は流転しているのである。ただし、それを認識できるものは、非凡なものか、天才に限られる。

 次に戦争の有意義な点を述べよう。戦争とは、人類の陶冶に有意義な効果をもたらす。その意味をゆっくりと感情的にならずに、推考してみよう。まず、自然淘汰説が人間と密接に関連していることが分かる。原初の人々は、生き残るために、徒党を組み、動物たちを食した。これは、理性という反省、熟慮が生み出した所作である。その結果、ピラミッド式の頂点に人間が立つようになった。さらには、そのおかげで多数の有意義な動物たちが消滅し、生態系が狂い始めた。その清算が、戦争である。戦争とは、黒く塗りつぶしてあった用紙を、白紙に戻す行為に等しい。現今の地球温暖化や人口の増長も、遠くはない戦争によって、修正されるであろう。
 
 では、人間が、かくもなぜ、戦争を悪しきものと考えるのだろう? それは、人間の根源的な意志(シェリングの述べる意志ではない)が働いているからである。ショーペンハウアーの述べる盲目的な意志が働いているから、自ずと人間は死を忌み嫌い、生を迎え入れるのである。それに対抗するには、意志の鎮静剤が必要である。ウパニシャッド哲学の叡智を感得したものには、諦念が分かる。悟りを開くこととは、諦念に他ならない。これは、日本人に受け入れやすい考えである。
 
 ここで、問題が起こってくる。倫理的に述べて、戦争とは悪か善かという問題である。この問題に対して、私は中立的な立場を取る。なぜなら、所詮、善と悪の根拠を決めるのは、人間の利己心であるからである。しかも、悪と善とは相関概念である。善が異常に昂揚すれば、それは倒錯を起こす。その反対もまたしかりである。これらの研究報告は、近年登場した心理学者ジャネの詳細な資料に頼ってのみ、論破された。私は、いかなる宗教にも苦行がつきまとうことを知っている。その繰り返しが、起こるとマゾヒズムがサディズムに転化し、恐ろしい笞刑や魔女狩りなどが行われるのである。この魔女狩りに注目してもらいたい!最初は、神への敬虔な祈りから始まった事柄が、いつのまにか、異端なものを抹殺するという行為に変わる。これは、多神論が支配していた古代ギリシャでは行われなかった。なんとも、名状しがたいことに、貴重な医学の父ヒポクラテスの神聖病の記述が残っているではないか!確かに、彼の記述した資料は現代医学から見れば、不明瞭である。私が思うに、彼の診断した患者は、分裂病、もしくは分裂病質の患者であったろう。では、いかなる経緯を伴って、この戦争というより、異端もしくは精神的、身体的に虚弱なものたちを、無抵抗な彼らを殺すことにまで及んだのであろうか?それは、やはり神のいない形而上学から見るしかない。形而上学的に述べて、人間とは同調するものをいとおしく思う。また、その反対に徹底的に違うものを迫害しようとする。実を言って、アドラー心理学の言葉を借りれば、当の迫害したものが弱くて、それを過剰保障したかっただけなのではあるが。これは、現代の問題にまで、もちろん及んでくる。キリスト教の根本原理は同情にある。では、この同情が打ち破られた時、彼らは何をするのか?それは、餌を与えていない猛禽類が血眼になって、獲物を追いかけるのと同じである。彼らは、催眠状態に陥り、盲信的に異端者を殺しまわる。その時の光景の異様さに、本人たちは気づかない。なんといっても、元来、人間も動物である以上、直観で動く方が楽だからである。分析心理学者のユングが述べた元型がここでは働いている。元型とは、人類一般がもっている無意識の所作である。フロイトの述べるリビドー理論も、無論、この場所に適用できよう。だが、私はそれをあえてしない。フロイトの理論は、その百年前にすでに発見され、クレッペリンらにより、改良されていたからである。なるほど、性欲の昂進が戦争を起こす引き金になる場合もある。けれども、近年になって、発表された暴力と気温の比較調査の方がよっぽど理に適っている。
 
 私はここで表明するが、冷戦とて、所詮は戦争の派系に過ぎない。その理由は至極簡単である。冷戦とは、言語学的に述べて(こんなことは、馬鹿なヴィトゲンシュタインにでもやってほしいものである。)、理性的に距離をまだ保っている状態を言う。いわゆる、武術で言う個体間距離である。その時には、なるほど、状況は最悪にまではいってはいないが、何かのきっかけで相手が攻撃を仕掛けてくる可能性がある状態である。そのため、双方は、距離を保ちながら、自分の優位な戦略状態を作り出す必要がある。その結果、相手をさも威嚇する振りを見せたり、秘密裏に軍事力を増強する必要があった。しかし、そんな状態も長くは続かなかった。アメリカに南アメリカに巨大な爆弾を抱え、ロシアは国内の分裂の勢いが激しくなってきていた。そして、当然の如く、冷戦は終結し、自分たちの国の内政に尽力を払う結果となった。それから、当たり前のように起こったのが、架空の敵を作るということである。架空の敵を作って、かつて敵であった国と一緒に戦えば、双方の国民は一致団結し、またもや集団催眠状態に陥り、双方の国を擁護する。この良い例が、ユーゴスラビアのNATO軍介入である。私は、事実を知っているから述べるが、その戦いの時に、秘密裏にアメリカも共謀して動き、ロシアを助けていたのである。それは、スペツナズの隊員に聞いて、初めて知った話である。見た目こそ違うが、現今のスペツナズとアメリカのSELE6は、ほとんど同じ行動体系を取っている。ただ、違うのがアメリカのデルタフォースである。もともと、デルタフォースはSASの隊員が指導教官になって、作り上げた地上専門の精鋭部隊だから、それはそれで納得できるのではあるが。
 さて、今日起こっている、第二次湾岸戦争及びアフガニスタンの内戦等々はいかなるものなのか? それは、一言で述べて、利権の横取りである。中東、諸国には資源が豊富で資源の枯渇した先進諸国が喉から手がでるくらいほしいものがたくさんある。当然、そこに秘密裏に先進諸各国が特殊部隊を送り込み、暗躍しているのは、周知の通りである。その原因も目的のために利用されるためである。人間とは、最後には、自分たちが作り出したものを必死にかき集めようとする。神にしても、金にしても、そうである。被造物に、寄り集まり、それを奪い取る。これは、今も昔も変わらない。
 
 戦争とは、例外なく、利権の取り合いであるということを、ここで強調する。普通の人間とは、利己心の赴くままに行動をする。すると、人々はそれに対して反駁する。しかしながら、すでに反駁する時点で利己心に汚染されていることを気づいていないのである。反駁とは、利己心がむき出しになった行為である。理性は停止し、フッサールの言葉を借りれば、機能停止状態に陥る。いかなる、戦争といえどもそれが個々人の行為からなっていることは言うまでもない。たとえ、民主主義だろうと、帝国主義だろうと、それは人民の民意を反映したものに他ならない。仮に、イエス・キリストのような人物が現在に生まれたとしよう。これは多少、ニーチェのメシア的思想と関係があるが、その人物は人々を扇動し、その一個人が悪と決めたものを断罪しようとする。当然の如く、洗脳された人々は、それに賛意を示すであろう。だが、それでも飽き足らない場合、人々は責任を指導者になすりつけようとする。これは、悪癖である。だから、シラーはカントの定言的命法をあてこすって、それに反論したのである。シェイクスピアの述べる、下心があれば、仮面ははがれ落ちる、という教訓詩は有名である。確かに、神を心から信奉するものに下心はない。けれども、民衆とは、利己心のみで動いているため、自分の気に喰わないできごとが起こると反発するのである。ショーペンハウアーの述べる純粋主観の境地に達すれば、利己心は滅却され、ウパニシャッド哲学の賢人のようになれるであろう。いみじくも、セネカが述べる通り、扇動された人々は怒りに身を任せた野獣に他ならないのである。
 戦争についての書物は、多数出版されているのもまた事実である。一番、有名なのがルソーの「社会契約論」、カントの「永遠平和のために」である。しかし、まことに遺憾ながら、双方とも理想主義に傾いている。それなら、まだしもモリスの「ユートピアだより」という小説を読んだ方がましである。それらを素早く察知した、実存主義者、キルケゴール、サルトル、カミュなどは、世の中の不合理さを唱えている。フランスの神学者アルノーは徹底的に経験を重視した。著書ポール・ロワイヤル論理学の中で、彼は、詭弁者の言葉遣いや聖アウグスティヌスの著書を引用し、特に神の国、まずもって人々が身につける必要があるものは、論理学であると強調している。なるほど、それも一理ある。論理学を身につければ、些細な討論、ゲーテがファウストで語った「政治家のどたばた騒ぎ」も解消される可能性がある。そうなれば、人々も理に適った討論や決断を行い、正確な判断を下せるようになるであろう。だが、いくら学を積んでも、根底にある欲望を抑えることは非常に難しい。それだから、いつの世も、戦争はなくならないのである。自らの欲望に蝕まれ、侵食されていくのを感じない鈍感な大衆。無論、この原因としては、日本という島国が戦争にほど遠いせいもある。フランスの哲学者デカルトは、軍人となって、方々を歩き回った。その光景に驚くなかれ!人々の死骸が、無残にも転がり、悪臭をはなっている。その光景は、口では言い表すことはできない。戦乱の世に生きた人々の警句には、鋭いものが多い。現今では、あまりにも人々は戦争に鈍感である。そのせいか、人一人が殺されただけでも驚く始末である。アメリカの新聞などを読むと、小さい記事にイラクで戦死した人々の名前のみが連なっている。その中には、二十歳になったばかりの青年もいた。確かに、彼らが高額の報酬を求めにイラクに行ったことはとがめることができない。ただし、彼らのような人々が存在するがこそ、石油やテロはかろうじて阻止されているのである。それを、鑑みない一般大衆は、戦死したものたちを馬鹿扱いし、さらにイギリスでは戦死した特殊部隊員の墓地に、碑銘すらつけられていないほどである。
 
 戦争とは、利害損失が関わる限り、永久に続けられる。世界の均衡が崩れだす時に、戦争は起こる。その時の人々は、精神医学的に述べてある一種の妄想に罹っている、といえよう。戦争に勝てば、利益を得られる。それも絶対的な利益だ!この信念の基に、戦争は行われる。第二次大戦の最中に行われたヒトラーの演説によって、集団催眠状態に罹った、人々も妄想にとりつかれたのと一緒である。いかなる健康人といえども、狂気の深淵に憧れを持つ。これは、精神科医ランゲ・アイヒバウムも暗黙裡のうちに述べていることである。だから、人々はこぞって、精神病者、もしくは精神病質者の書いた本や、絵を感嘆の念を込めてみるのである。では、時代をさかのぼってみよう。第二次大戦中のヒトラーの精神鑑定をさせてもらうことにする。これは、重要なことである。指導者の人格如何によって、国民は扇動されるからである。ヒトラーには、優秀な部下ゲッペルスがいた。そこから、彼の圧制者の道は始まった。エルンスト・クレッチマー、ユングの資料を基とヒトラーの写真、及び、彼の言動を仔細に分析することにする。まず、彼は細長型である。これは、理想主義的な格率を八十%の割合で意味する。さらに、彼の圧政的な言動からは、理想主義的な帝国を建国するという意志が読み取れる。したがって、限りなく彼は理想主義者であった格率が高い。心理学者ピアジェの言葉を借りれば、彼にはまったくといっていいほど形式的判断が欠けている。外向的直観型であり、おしげもなく、民衆に自分の偉大さを示すという一面も持っていた。ショーペンハウアーとニーチェの信奉者であり、金で装填したニーチェ全集をその時のムッソリーニに送ったほどである。だが、この行為は、アドラー心理学の言葉を借りれば、過剰保障、すなわち自己の弱さを否定しようとする意志の表れである。おそらく、推測するに彼には父親に対する嫉妬があったのであろう。これは、フロイトの意見を基にしている。戦争の最中、三国同盟が次々と屈していく中でも、彼は大衆にでっち上げの報告をし、いかにも自国が優勢に立っていることを示したがった。ロンメル機甲師団がSASに強襲され、補給路を断たれても、なお彼は自国の勝利を確信している素振りを見せた。そして、敗北が決定的になると彼は、秘書と共に毒薬を飲み、自殺をした。その秘書とは、仲が良かったらしいが、ついぞ結婚までにはたどり着けなかった。これには、先ほど述べた父親への嫉妬が関係してくる。愛するものを、受け入れたいが、それを拒まざるをえない。これは、両面価値である。それから、ヒトラーは死んだ。あっけなかった。如才もなく、行動力だけで生きてきた彼にとって、唯一の頼みは、自我の開放であった。しかし、それは結局、行われず、彼は死去してしまった。確かに、彼の言動にはキケローに似た部分がある。けれども、その違いは、ヒトラーが独特な民衆を扇動する技術を持たなかったことである。国内では、ボーボワールたちによる反ヒトラー派が組織され、海外からはシャルル・ドゴール将軍がヒトラーに対して、反ナチスを標に活発に行動をしていた。それから、間もなく第二次大戦は終結し、平和が訪れたのである。しかし、ヒトラーの行動は理に適っている。彼は、多数の戦死者を出したが、それが今日の世界人口増加に歯止めをかけている。人とは、ある一面から物事を見ようとする。けれども、それは間違いである。第二次世界大戦は、善行とはいえないが、それでも様々な効果を及ぼしているのも確かである。
 
 ここで問題なのが、フッサールの述べる自我と他我の関係である。ヒトラーは、なるほど、倫理的に言って、悪行を犯したといえる。だが、前にも述べたとおり悪と善とは相関関係にある。勝てば官軍負ければ賊軍という言葉が示すとおりに、勝利が善で、敗北が悪だと早急に決めることもできる。けれども、形而上学から言わせてもらえれば、悪行とは利己心に支配された勝手気ままな行為である。また、善行とはウパニシャッド哲学が示すとおり、自己の利己心を滅却し、他人に奉仕することである。これは、インド僧の態度を見れば分かる。かのガンジーですら、最後には国民に訴えかえるために、自ら自殺したではないか!この行為は、意志の鎮静剤のおかげである。普通の人々は、中道を歩き、利己心や権利に屈服する。ショーペンハウアーの述べる通り、人々は権威にやすやすと屈するのである。さらに、時間は進み、次にベトナム戦争の話をしよう。ベトナムで初めてアメリカが敗北したのは、皆さんもおわかりだと思う。当時、アメリカは甘く見ていた。それがそもそもの傲慢の過ちである。アメリカは次々とM16-1などの最新兵器を生み出すが、時期早々であった。基本的に戦略、戦術の玄人は、戦略で八割がた決まるのを知っている。それをおこたったのがアメリカである。なるほど、精鋭のグリーンベレーを派兵すれば、事は万事うまく収まるように見えた。だが、彼らの認識の甘さ、技術力の低さをまのあたりにさていたのが、ベトコンの奇襲作戦である。情報が古今東西の戦略上の要になっているのは、間違いない。宰相ハンニバルが執った行動は、軽率に見えるが、決してそうではない。彼は、即決即断で物事を見通し、豊富な戦略と戦術を用いた。彼は、まず、布石を念入りにうってから、行動に移った。これこそがまさに現代社会に対する批判に通ずる。現代社会の民主義国家の大統領、もしくは首相は細長型である。それは、理想主義を意味する。今の福田首相にしても、理想主義者であり、駄法螺吹きである。これは、ユングの述べる外向型タイプに当てはまる。けれども、ハイネの詩にあるように、人間の根底の性格は変えられるものではない。自分を取り繕って、あえて自己の偉大さ、及び、民意への賛同を表明する。これは社会一般に流布する悪しき所業である。いくら、大多数の人民が居たとして、大統領の意見に看破されるのはすでに決まっている。けれども、その仮面は剥がれ落ちる。時代と共に、永久に読まれざる本を書くために、本を書くと意を同じくした行為が巷に流布している。利己心の横溢。これは仮象の神が存在した時点ではほとんどなかった。しかし、元来、日本人とは無神論者である。これは世界にも共通することだが、反戦者には無心論者が多い。私が目につくのは、ヘルマン・ヘッセ、ボーボワール等々である。物理学者のアンリ・ポアンカレは述べる。「人は時に立ちどまなければならない。」と。
 
 総括することをここで述べておきたい。戦争とは、利害損失の取り合いである。もちろん、カントの述べた「永遠平和のために」を読むと、ひしひしと彼の情熱が伝わってくる。だが、この書物も理想主義に堕したために、カントの信奉者であったショーペンハウアーから非難を受けている。ショーペンハウアーいわく、カントも痴呆に陥ったことであろう、と述べている。この意見は正しい。ショーペンハウアーは主書「意志と表象としての世界」の中で、こう述べている。もし人々が争いをやめ、恒久平和が訪れるのならば、それはそれでおもしろい結果になるであろう。結局は、人類の過剰な増加による死滅であると。これは鋭い警句である。現在に至って、ようやく地質学者や生物学者の類がその警句を発し始めている。
 
 しかしながら、まことに遺憾だが、一般の人々はのうのうと暮らしている。百万年に一回隕石が落ち、地球が壊滅状態になることも露知らず暮らす大衆。危険が目の前に迫っていないかぎり、本当に大衆とは無頓着だ。すぐにリビアがアメリカに宣戦布告しても、おかしくない昨今の現状においても、大衆は手をこまねいているだけだ。私もイスラエルに行って、現地の治安関係者と技術交流をした。あくまで、彼らは実践的で、油断すると骨が折られそうになるぐらいである。さらに、対テロ対策として、防毒マスクの訓練も受けた。一秒以内に装着しなければ、死にいたるという経験に即した考え方である。イタリア国家警察たちとの交流は今でも忘れられない。特殊部隊の制服を着て歩いている最中においても、ジェノバの港では堂々と偽ブランド品が黒人によって売られていた。さらに、驚くことに子供たちの公園の前に装甲車が止っていたことである。これは、到底日本では考えられない。それとは打って変わって、警察官も陽気で私たちがイタリア国家警察の指導をしに来ているのを窓越しに見ていた。もちろん、緊迫した状況はあった。黒人に警察官が絡まれた時、とっさに何名かの警察官は銃口を向けていた。その刹那に気づいた黒人は間もなく投降し、事なきを得た。その時、やはりイタリアは危険だと思った。午後六時にはすべての商店が閉められ、深夜には女性の叫び声が聞こえた。その時の記憶は今でも鮮明に覚えている。だから、私は昼間、数人の部下と一緒にビールを買いだめし、夜は飲んで、大はしゃぎになった。けれども、油断は禁物だ。私はお腹が減ったので、ホテルのフロントの人に英語で、近くのレストランを教えてもらおうとした。しかし、彼が言うにはもうすでに全部の商店が閉まっているということであった。そこで、とっさの機転を利かし、ホテルの食料を買い取ることにした。彼は、快く承諾してくれ、何がほしいか?などを聞いてきた。とりあえず、私は山ほどのパンにチーズ、ハムを頼んだ。そこでだ。イタリア人のいい加減な気質が出る。彼は、日本円で三百円ほどの値段で、その食料を売ってくれた。それから、イタリアに滞在していた時は、事あるごとに、ホテルの食料を安く仕入れて自室で食べたものだ。
 
 さて、次に南フランスの話題に戻るが、彼らもいい加減で、値段も適当であった。だが、タクシーに乗る時には注意しなければいけなかった。私は作り笑いをし、おもむろに特殊部隊のバッヂを運転手に見せて、運賃を安くさせた。そうまでしないと、彼らは外国人を葱をしょったかもだと思い込み、高額な運賃を要求してくるからである。ニースの駅では、フランス語の分かるボディガードに訊いたところ、八割方がすりらしい。ここで、一つ私事を述べるが、私の目は異常に鋭い。それを鋭敏に嗅ぎ取ったすり師たちは、すきがないのを察知し、大抵近寄ってこなかった。モナコでは、フランス国家憲兵隊が国境警備をしているという訳で、手厚いおもてなしを受けた。モナコの人口数に比べて、圧倒的に治安関係者が多い。それが現状だった。また、ニースに舞い戻った時には、フランス国家憲兵隊治安介入部隊の秘密基地を見せてもらった(その場所は、一般人には決して公開されない。フランス国家憲兵隊のホームページを覗いても、武装介入機動部隊までは出ているが、治安介入機動部隊のことはまったく書かれていない。私の友人である司令官に聞いた所、フランス全土でも七千人ほどしかいない精鋭部隊である。)。警察署長は自分が取った数々の賞を見せてくれた。そして、私が無造作に置いてある紙を取って、読んでいると、署長はダメだと言った。途中までしか読んでいないが、どうやら、テロリストや凶悪犯罪者の情報らしかった。これ以上、論述すると抹殺される可能性があるので、述べないことにする。
 
 では、戦争の話に戻ることにしよう。民主主義国家では、細長型、理想主義者の大統領。帝国主義では、現実主義の肥満型の圧制者が多い。もちろん、この例外、キューバのような国、などは存在するが、それはごく少数なので省略することにする。であるからして、日本やアメリカは民主主義国家であり、中国やリビアは社会主義国家である。現実主義者の場合は、精神科医の立場から見て、誇大妄想の気があり、積極的に、他国への侵略及び、資源の横領を行う。反対に理想主義者では、尊大な理想の基に国の改革を押し進めて行く。この双方の違いが戦争を生み出す原因といっても過言ではない。人は、自分と違うものを忌み嫌う。それは道徳の問題ではない。もっと本能的なものである。時に、人は蛮族に立ち返ったように、早急に判断を下す。もちろん、これはほとんどの場合、間違いである。「天才を凡人は避けたがる」という名言どおりに、人々はあからさまに当人の自尊心、友人関係、生活の糧を断絶し、窮地に追い込む。そして、天才や非凡なものたちには圧倒的に自殺が多い。
 
 ロシアのプーチン大統領は、闘士型と細長型の混合である。外交においても、堅忍不抜な態度を執り、各国に対して、有利な外交を展開している。だが、内政においては、話は、別である。それに対してプーチンが執った行動は、特殊部隊の強化である。ただし、それでもテロリストの行動の抑制には、歯止めがかかっていない。その結果、内政は、混乱し、悪化の一途をたどっている。したがって、現今のロシアが戦争を他国に仕掛けるとは考えにくい。だから、第二次湾岸戦争においても、ロシアは不干渉の姿勢をとっているのである。また、別の理由として、ロシアに対するテロリストの攻撃を防ぐ意味もある。冷戦時代に、アフガニスタンにクレムリンが軍隊を送って、壊滅的な打撃を受けた。そして、当然の如く、イスラム系の人々は激怒し、ロシアを攻撃した。これが、そもそもの間違いであった。ソビエト時代においては、内政は、沈静化し、治安は良かった。だが、アフガニスタン侵攻により、ソビエト連邦への不満は頂点に達し、ついには国内分裂の憂き目にあった。そこぞとばかりに、先進諸各国は、ロシアの分裂した国々を、手に入れようとして、軍隊を送り続けた。その時にも、ロシアは、軍事力の低下により、介入はそれほどできなかった。結果、国内は、分裂し、ロシアの領土と資本金が削減された。その理由も、あまりにも、冷戦時代、アメリカをけん制するために資金をさいたことが理由に挙げられる。
 
 さらに、冷戦時代には、ドイツの領土を維持するために、軍隊を駐留させておく必要があった。冷戦時代には、現在より、活発に利権の取り合いがあり、戦争が繰り返されていた。その例として、ノームチョムフスキーが暴露したアメリカの南アメリカへの征服があるであろう。ロシアも同様のことをしたことは否めない。いくら、国際連合の常任理事国とはいえ、自国の利益ばかりを考えた行動は、許されないであろう。アフガニスタンへの侵略から、ソビエトは零落していった。クレムリンの嘘の報告、及び、国民へのでっち上げの報告。それから、クレムリンの幹部や国民たちは、乖離していった。あまりにも内政に目を向けないがために、祖国を維持することもできなくなったソビエト。自由な発言も許されず、トルストイの「平和と戦争」も、禁書にされてしまった。これは、あまりにも、ソビエトの内情を伝える公の書物であったからであろう。気に入らないものは、排除する。これが、ロシアの国民性である。第二次世界大戦のときも、ソビエトは、日本との条約を破り、満州に侵攻した。だから、ロシアは敵を作りやすい国といえるであろう。あえて、いうならば、唯一、ロシアと親密な国は、中国ぐらいである。今も昔も変わらないが、ロシアとはたちの悪い狐と呼べる。狡猾で自国の利益になることならば、他国を顧みず、自国の利益を最優先する。これが、旧ロシア帝国から続く、ロシアの現状である。もし、ロシアが、再建され、力を取り戻せば、再び、利益のために、他国を侵略することであろう。
 
 次に注目するのが、中国である。胡錦濤首席は、日本、アメリカと宥和政策をとっているが、台湾との問題には、国際関係のみならず、厳しい姿勢を見せている。中国は、台湾を、敵視している。かろうじて、アメリカの支援が、あって、中国と台湾の均衡は、保たれているが、それでも、なお、危険な要素を含んでいる。中国は、台湾に向けて千発以上のミサイルを配置している。これでは、いつ戦争が起こっても、おかしくない状況である。したがって、第三次世界大戦が中国から、起きる可能性は限りなく高い。軍によって、再編され、高性能の戦車、戦闘機などが、積極的に開発されている。さらに郊外では過疎化では進み、国民の貧困が激しくなってきている。中国政府は、そのことを現状として、捉えず、貧困の悪化は一途をたどっている。そのため、貧困想は蜂起を繰り返し、また、人口増加による領土の拡大のために、チベットを我が物にしようとしている。そして、中国は、諸々の各国に対して、無断で、自国の利益優先のために、あらゆる手段を講じる。その良い例として、日本の天然ガスの横領、及び、国際連合の意見を無視したチベットへの進行が挙げられるであろう。一応、中国も第二次大戦の戦勝国で、常任理事国である。しかしながら、他の常任理事国、おのおのの各国は、中国に反発している。社会主義国家で有永、資本種国家。この二律背反が、中国における自由な発言ー平等―を生み出さない。その結果、天安門事件を初めとして、人々が体制に抵抗している。けれども、政府はそれに、耳を傾けない。北朝鮮との友好関係から、秘密裏に麻薬の売買が行われている現状。まさに、北朝鮮と中国の国境付近は、無法地帯である。これは、アヘン事件の時にも同様のことが起きた。どうやら、中国人の気質には、支配欲と安易な恍惚さを、ほっする気もちがあるらしい。だから、中国では、今も非合法の麻薬が簡単に手に入るのである。現今、内政を無視した国政は、非常に攻撃的になっている。それで、台湾の独立を拒むものなのである。また、数年前に起きた中国の潜水艦の越境行為も、道理に反している。主に、彼らの任務は、偵察にあったのであろう。それに、日本駐留のアメリカ軍の戦力を把握していたでもあろう。だが、北朝鮮に対する融和性格は、瓦解し、今もって、北朝鮮に対する態度も、連合国の意見に、同調し始めている。
 
 だが、油断は禁物である。私は、満州の将校だった先生から、「ロシアと中国は狐だ。」という言葉をまざまざと思い出す。その人の話では、終戦後、満州からアメリカ兵に連行されている時に、突然、毛沢東率いる二万の兵士が現れ、あっという間に護衛のアメリカ兵を殺してしまった。千六百人しか居ない日本兵にとっては、雌雄の時であった。かれらは、アメリカの死んだ兵士の装備奪い去り、腰元にあった剣を持って、果敢に毛沢東に挑んだ。その結果、中国軍は大日本帝孤軍の圧力に押され、退散してしまった。その後、無事に、日本にたどり着いたときは、精根尽き果てて、身動きができなくなったらしい。他の話をすれば、大日本帝国敗北の色合いが濃くなってきた時、ソビエトが条約を破って、満州に攻め入った時、最後に言われたのが、地雷を背中にくくりつけて、戦車の下に入って、自爆しろという命令であったらしい。
 
 では、中国と台湾の話に戻ろう。中国は、ロシアと。台湾はアメリカと友好関係を保っている。それから、中国は台湾を中国の一部と見なし、台湾は台湾で、国際社会に、独立国になるよう訴えかけている。もちろん、第三次世界大戦が勃発した場合、ロシアと中国、双方から攻められる訳である。そこで問題なのが軍事力だ。無論、日本の自衛隊だけでは、太刀打ちできない。だから、アメリカ軍が在沖しているのである。これには、二つの意味がある。中国へのけん制、及び、イラクへの派兵、補給の任務である。中東諸国に軍事拠点をもてないアメリカは、しょうがなく近場の日本を利用して、イラクへの派兵を進めているのである。いくら、アメリカがNATO軍に所属していると主張しても、諸々の国は、その行為を嘲笑している。いくら、アメリカがNATO軍に所属していると訴えたところで、NATO軍は、それを黙って、看過する。その理由から、NATO軍は、イラクにごく少数の兵隊しか、送り込まなかった。中国も同様である。だいたいからして、内政の整っていない国が、他国を援助するなど、どだい無理な話である。冷戦時代に終止符が、ついたのはいいが、新たな問題が浮上してきた。これは、当たり前である。平和の後には、再び、戦乱が巻き起こる。
 
 現今においても、中国と台湾の仲は、不和である。中国は、圧政的な社会主義、台湾は、発言の自由が許される民主主義国家。これでは、まるで冷戦の繰り返しである。私が、思うに、冷戦の場所は移動した、と思う。昔は、ソビエトとアメリカの冷戦時代であったが、現在は、中国と台湾の冷戦状態である。無論、日本も介入しているが、それは微々たるものである。
 
 最後にあたって、今までのことを要約したい。古代から戦争は繰り返され、平和な時代は、少なかった。その原因も、人間本性に関わる。人とは、ルサンチマンを持っており、好んで、戦争をするのである。これは、ニーチェが述べている通りである。相手と同じものを、持っているかぎり戦争はなくならないだろう。しかし、冷戦時代にアメリカとソビトは譲歩した。理性が、働いていたせいで、第三次世界大戦の勃発は、免れたのである。だが、ベルリンの壁崩壊徒と共に、民衆は一挙に、反旗する。その結果、ロシアの内部分裂、及び、アメリカの南アメリカへの資源の横領を辞めさせた。そして、時は移り、現代の冷戦は、台湾と中国の間に起こっている。もちろん、どちらかが、攻撃を開始すれば、庇護している国々、特にロシアとあまりかは、黙っていないであろう。日本の米軍基地に積極的に軍備増強が、なされていることは、何もイラクのためだけではない。台湾のためでもある。ロシアは、近いというだけあって、秘密裏に、中国に、武器を送り続けている。無論、雌雄が決するのは早いであろう。中国軍の圧倒的な軍事力に、台湾に圧倒され、アメリカが支援する。その時になって、アメリカとロシアは、牙をむく。手っ取り早い、言い訳を作って、双方とも、激戦を繰り返すであろう。その波及は、ヨーロッパ諸各国にまで、及び、第三次世界大戦が始まるのである。NATO軍の介入。さすがに、中立国のスイスにまでは、手を出さないと思うが、もし、手を出したら、スイスの強大な軍事力、例えばイゾーネ精鋭歩兵学校の隊員を、惜しげもなく、祖国の防衛のために投入するだろう。それから、最後に付言しておくが、第二次世界大戦よりも凄惨な結果となるであろう。なぜなら、各国とも、第二次大戦の時よりも組織力、軍事力を強化させているからである。日本も例外ではない。平和ボケしたこの国が、到底、第三次世界大戦に、臨める訳はない。今、求められているのは、日本の軍事力の強化、これは民衆にとっては税金の無駄遣いにしか思われない、を施行させていく必要がある。近隣諸国の国民性を把握し、友好関係を築いていくことが、今、求められている。苦言を呈するが、今の日本国民の戦争への認識は甘すぎる。もし、戦争が起きれば、アルカイダも動き出すことだろう。中国マフィアの蛇頭もその例に漏れない。かつてのアルカポネが、現今の世で、再び動き出す。結局は、こうなる。戦争とは、利益、領土の奪い合いであり、ショーペンハウアーが説いたキリスト教の起源は同情にある、という言葉とはあまりにもかけ離れている。人類の終焉は近い。国際連合も正常に機能していない中で、各国は勝って気ままに、行動をしている。再び、戦争が起きる時に、人類は、水爆によって消滅するであろう。
 
友よ!幼さを脱却せよ!」ジャン・ジャック・ルソー

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