Thursday, February 3, 2011

異常心理学 パラノイア性犯罪者について

 私はパラノイア性犯罪者を連続殺人鬼の中に多く見る。彼らは執拗に標的をつけねらい、最後には彼、彼女たちを喰い尽してしまう。またパラノイアを有する人々は自然科学者に多く見られる。ローベルト・コッホ、ニールス・ボーアはこの範疇に入る。これはクレッチュマーが提起した「体質と性格」を読めば分かる事である。しかしこれでは区分けが矛盾してしまう。おそらくラカンは粘着性とパラノイアを混合している。このような間違いは今までにもたくさんあったが、真摯なる精神科医は疑問があれば、積極的に問題の解決に取り組む義務がある。それをなおざりにして、パラノイア性犯罪者の謎は解けない。さて、パラノイアの説明を少しすることにしよう。パラノイアの特徴は執着心とある一点の物事に集中することにある。たとえば、望遠鏡は遠くまで見えるが、ごく近場に目に入らない状況のようなものを我々はパラノイアと呼ぶ。
 
 まず肥満型の犯人は犯行が衝動的であり、すぐに警察に捕まる場合が多い。彼らには著しい猪突猛進性が見られる。反対に細長型の犯罪者は計画的に犯行を実地するので、犯罪の予防はかなり苦しいものになる。そして私が先ほど述べたパラノイア性犯罪者とは細長型に多く見られるのである。かような型の犯罪者は体質遺伝学上、定められている。したがって、私は一歩後退しなければならないのである。
 
 パラノイアとは一点を集中する行為であり、自己催眠を自分に課している行為である。もちろんこれはまともな人々にはできない行為である。私見では努力とパラノイアを同一意義に考えるのが好ましい。
 
 パラノイアとは一定の段階を超えると、激しい妄想観念に支配され、廃人になる場合がある。もしくは、ルソーのように強烈な追跡妄想、関係妄想に発展する可能性は無きにしも(あら)である。また、自己防衛反応が起動し、ヒステリーや多重人格が形成されることもある。
 
 順を追って説明すれば、まず犯罪者の体質遺伝学上、さらには家庭環境を加味する必要がある。白昼夢がしばしば見られることも実は危険な兆候を示している場合がある。最初に妄想が生じ、次に妄想と現実の境目がなくなった人間は自己中心的になり、周りを顧みる余裕が生じない。この症状は比較的知能指数の高い犯罪者や常人にも見られる。しかし常人と彼らの違いは間違いなく存在するのである。ニーチェの箴言「ある一個人の性癖の度合いと様態は、人間の全人格を貫く」。これが大きな違いである。サディズムやマゾヒズムは性癖の大きな特徴である。一旦、片方の均衡が崩れようものなら、すぐさまそれは倒錯を起こし、サディズムからマゾヒズムに倒錯する。その反対もしかりである。根底にある抑えようのない欲望からこの現象は起きるのである。
 
 次にパラノイア性犯罪者の特徴を述べることする。まず彼らは決して、目的もなく犯行を重ねない。この意味はパラノイア性犯罪者とは常習性犯罪者にはなりえない、と言うことである。鋭い目をした鷹のように、彼らはいつも舌なめずりをしている。私は、かような人物をパラノイア性犯罪者として、名づけた。また、これはこう言える。社会的に価値を見出しえないものは、犯罪者となり、ごく少数のものが社会に有益をもたらすのである。
 これはやや目的論的な考えではあるが、パラノイア性犯罪者とは、偶然の産物ではなく、当たり前のことではないのだろうか。アメリカの激しい移民流入を考慮すれば、それは納得がいくはずである。なんと言っても群を抜いてアメリカでの犯罪件数は他国より多いのである。そのため、今の段階ですら、危うい面が多々見られる。
 
 私はラカンの思想体系に対して、納得がいかない。そもそも彼の本には独創的な思想がかけており、冗漫なフロイトなどの伝記作者のようである。
 
 また社会的価値もすこぶる低い。なぜなら、彼の本に書かれていることはすでになされた事であり、まったくもって利発さにかけている。まあ、せいぜいこの本は活字印刷の始まりが華々しくあったように、すぐさま頽廃するであろう。そして人々はすぐにこの本の構成要素を解きほぐし、この本に対して紛糾することであろう。

 話を元に戻すことにしよう。ラカンが滔々と書いている文章、そのほとんどが単なる聞き取り程度に過ぎないものであるが、そこに燐光を見出すものは少ない。彼はクレッペリンの体系を取り出し、説明する。もちろん、こんなことは小学生にでもできる。確かに彼は彼なりの自信があって、この本を書いたのであろう。だが、あまりにもひどすぎる。パラノイアを器質疾患、これは一部正しいのだが、それとどうやら幼児期の体験を基にして、パラノイアになるらしい。これははなはだしい間違いである。パラノイアとは間違いなく、遺伝の影響をかなりの程度で受けている。およそ六倍以上、集中力や努力の頻度は遺伝子によって、先天的に決まっているのである。この事実をないがしろにして、精神医学、心理学は語れない。精微な精神と大胆な発想力なくして、何ものも見出せはしない。そして臨床医にとっては深い環境素因への愛情がなければ患者を救うことなどできないのである。

  それに先ほど述べた幼児期の体験を基にしてパラノイアが形成されるのは明らかにおかしい。普通なら自我が形成されるのが幼児期である。それをパラノイアの要因として考えるとは、誰も予想しなかったであろう。この間違いの原因はいくつかある。まずおねしょが長引いて、精神病質的劣等感が形成され、それを過剰保障がなされる。そして子供ながらに軽い被害妄想に陥る場合は確かにある。しかしそれが青年期を過ぎた後にも永続する場合としない場合があるのである。他には白昼夢をよく見る場合が当てはまる。ぼぅっとしている生徒を教師が怒鳴りつけたりする場合は多々見られる。けれども、生徒はなぜ、怒られているのかが、分からない。その様な状況を何度も経験すれば、なるほどパラノイアの一つ目の条件、妄想が固定される事になる。だが、これが殺人にまで発展するにはその個人の性癖によって違ってくる。したがって、ここでも遺伝素因の重要さが再び浮かび上がってくるのである。それに親の知能指数が高いものは統計学上、両親、祖父母と同じ傾向を示す。つまり、これに付随して、子供の性癖なども決まってくるのである。
 話を本筋に戻すと、ラカンの主張は退ける点がまだあると分かった。では、次にラカンに対する批判と検討を行いたいと思う。ラカンの態度は本を読むかぎり、実存哲学に近い。ヤスパースとは一線を慨しているが、それでもやはり彼の主張は実存哲学と捉えるべきであろう。その細心な魂を持って、患者を研究する事は悪くはない。しかし彼の場合はあまりにも実地経験に頼っている観がある。普通、人間とは経験だけでは何ものも理解しない。というより、できないのである。日々の体験を反省し、それを昇華することで初めてその人は知恵を手に入れるのである。
 
 パラノイアとは外因性と内因性に分けられる。外因性パラノイアとは環境によって誘発されるパラノイアのことである。ただし、これはある特定の時期、女性の場合なら、結婚緊張症と重なって多く見られる。

 内因性パラノイアとは外部からの影響でなしに、自らの内部構造に変調をきたすものである。これは意識的に行われるのではなく、下層知性によって処理される、原始的な機構である。これを形成する部位は脳幹である。

 そしてパラノイア性犯罪者とは内因性のうちに育まれてゆく原始的な人々だとも言える。はたしてかような犯罪者に救い道はあるのであろうか.いな、それはありうるのである。純粋なる循環性殺人鬼ではないかぎり、それは可能なのである。
 
 まず治療としてロールシャッハテストを行い、相手の性格を知る必要がある。次に精神分析の力を借りて、自由連想を行う。さらには比較的知能指数の高い殺人鬼にはソクラテス式談話法を用い、犯罪者の内奥の性格を知る必要があるのである。
 
 私は自由連想を行う時に重要な知見が含まれると思う。それはパラノイア性犯罪者の犯罪傾向を調べる点で有利なのである。たとえば、女という言葉を相手に投げつけ反応を見る。その結果が憎いとかの場合だと、婦女子全般に危険が及ぶ可能性は高く、特に危険視するべきである。また憎悪が特定の人間に向けられている場合は、じっくりと話し合えば、難なく終わる。
 
 さて、私はこの後に内因性パラノイア、外因性パラノイアのより詳しい説明しなければならない。内因性とは、不満が高まるにつれ、その衝動性は耐え切れなくなり、明白の下に明らかになる。これをユングの言葉を借りていえば、「内向的タイプ」となる。内因性とは前にも話したとおりに不満が原因で起こる場合が多い。また自分の弱さを感じているものが、自己を高揚させるために。「過剰保障」を起こし、凶行に走る場合が多々ある。たとえば、ドイツのケーニスベルク邪教派事件、教頭ヴァーグナーによるニーチェのメシア的発想、そして多数の死人。これがパラノイア性犯罪者の凶行の結果である。
 
 そして私は最後にラカンに対する反駁を書こうと思う。ラカンは繊細な精神病者の書いた手記に対しては、すなおに簡単の意を示している。しかし彼は自説に酔いしれるがあまりに、精神医学の先駆者たちの努力をほとんど無視している。確かにこのような書き方がなされる事もある。それは天才のみに理解され、常人には何の意味かも分からない。その様な代物である。もちろん、ラカンの述べることが正しい場合も多い。だが精微な科学者たるものはいかなる問題にも尻込みをしてはいけないのである。私が思うにラカンは文章など書かずに臨床家としてのほうか活躍できたと思う。

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