Thursday, February 3, 2011

心理学論攷

 Die seitherig Entwicklung der Psychotherapie ist durch ein stoßweises, unebenmäßiges---Hintergrundes. Psychotherapeutische studien von Ernst Kretschmer
以上の文章は割合したが、人間の人格、殊に精神面に対する記述が多いので元書と照らし合わせること。
 
 また同時代にエスキロールは進行麻痺の患者に脳組織の慢性炎症性を常に伴う一疾患を発見した。クルトシュナイダーは老年性精神病に同様の傾向があることを発見している。これはいずれも十九世紀後半から二十世紀前半に起きた出来事である。特筆すべきなのは、ほとんどの同時代の精神科医や解剖学者が分裂病に対して、客観的に脳に何らかの異常を伴うと見ていたことに対して、ユングは全く違う見方をしていたということである。ユングは解剖学的見地から見て、ほとんどの分裂病の患者に脳疾患が起きていないことを確かめている。
 
 次に非行臨床について語りたいと思う。まず断っておくが、少年が犯罪を起した要因をあまり環境に求めてはならない。遺伝学者ゴットシャルトの報告に、遺伝の影響は、環境素因のそれより約二・五倍高いとある。したがって、異常犯罪者に見られる傾向はすでに生まれ持ったものであり、矯正は不可能に近い。米連邦捜査局の資料によれば、エドムンド・エミール・ケンパーやヘンリー・リー・ルーカスは、幼小児の頃、動物虐待やレイプ、殺人を行なった。傍目から見て、この両者の行動は異常である。しかし米裁判所は、両名に精神異常を認めなかった。この理由は、明確である。なぜならこの様な異常素因を備えた人物の根底にあるのは、フロイトの述べる無意識の所作ではなく、むしろショーペンハウアーの述べた叡知的性格に根ざすものだからである。つまり、この両名の根底に横たわる欲動構造、征服欲、自己欺瞞が密接に彼らの私的生活と拘り、それが殺人やレイプなどの行動を起こさせたのである。
 
 さて、本題に移ることにしよう。最初に臨床の意味を示そう。動物実験にも人間に対しても、臨床という言葉は用いられる。だが人間の臨床は動物の臨床実験と違う。大きな違いを一つ挙げると、それは人間の臨床の場合、言葉が新たな実験器材として使用できるという事である。これがあるおかげで自由連想やソクラテス式対話が行なえるのである。少年犯罪には主に前者が用いられる。頭に浮かんできたことを次々と話すように少年に促し、彼がいかなる欲動構造を持っているのかを把握することができる。そして少年という思春期の過度期に位置する被験者には特に注意しなければならない。これが異常犯罪者との大きな違いでもある。思春期とは、その人間の持っている天賦の才を昇華する時期である。またその時には感受性の昂進が見られる。関係妄想、被害妄想などの精神疾患は特にこの時期に現れる。そしてここから導き出される結論は少数の見解にまとまる。一つ言えば、元来神経質な少年が思春期の感受性昂進のため、変な思い込みで人を殺めたり、自閉症的傾向を呈する場合がある。この事例の場合、対処法はいたって簡単である。その少年にいくつかの臨床を施し、その結果から導き出せる答えをさらなる臨床実験によって、確かめることである。もし二十歳を過ぎても、少年の行う行動、それが示唆する欲動構造に大きな変化見られなければ、再犯を犯す可能性が高い。なぜなら人間とは二十歳を超えた時点で、精神的平衡が暫時保たれるようになるからである。それが行なわれない時点で、生物学的に異常と言わざるを得ない。したがって、思春期の只中で犯罪を起した少年に対しては、慎重な対処が要求されるのである。また、成人を過ぎた犯罪者の矯正が難しい理由は、その人物の根底に横たわる欲動構造が決定的な要因であり、その欲動構造を修正する事は理性には出来ないからである。最後にニーチェの箴言を述べておこう「ある一個人の性癖の度合いと様態とは、その人間の精神の最頂上に至るまで高くそびえ立つ。」
 
 では、ここから殺人衝動を例にとって説明して行きたいと思う。

 殺人とはいかなる衝動によって、導き出されるのか、これはいまだに謎に包まれている。確かに精神科医の尽力である程度の殺人鬼たちの素行、態度、性格などの資料は集まっている。しかしそれでもあらゆる人物は殺人鬼の凶行を畏怖の念を持ってながめる。誰一人として、彼らの素質類型、さらにはその独特の性格の変遷を描いたものはいないのである。殺人鬼の独特の嗜好、その点に気がついたのは研究者でもごくわずかであった。先程述べたニーチェの箴言、「ある一個人の性癖の度合いと様態とは、その人間の精神の最頂上までに至るまで高くそびえ立つ」と、ある。確かにこの箴言は正鵠を得ている。幾人かの殺人鬼は幼少期の頃より、動物虐待や人の死体を見る事を好んでいた。また白昼夢も彼らには高い頻度で見られた。人間とは自分が欲することをできない時に、それを空想や妄想で補う。これは昇華された形ともとれる。ドストエフスキーは「罪と罰」の中でその殺人欲をラスコーニコフの老婆殺しの形で顕現している。むろん、それは文学的に昇華されている。そのため、彼は白昼夢と同様の原理で効率よく欲望を発散する事ができたのである。

殺人鬼の中には倒錯が多く見られる。道化師ポゴとして慈善活動を行いながら、七年の間に少年を殺し続けた殺人ピエロ、ジョン・ウェイン・ゲイシーはその見本といってよいであろう。治安関係者の者ならば、周知の通り、一時の仮面はすぐにはがれ落ちる。だがその現象が長い期間続く場合、我々はほかの見解を認めなければならない。それはジキルとハイドに代表される人格の多面性の事である。ヘルマン・ヘッセが「荒野のおおかみ」で語った人格の多面性、それを私たちは多数の殺人鬼の中に見出す。マゾヒストもその度合いを大きく超えれば、それが急激に反転し、サディストになる。その反対もまたある。これが倒錯である。慈善と殺人というまったく相反する素質を備えた殺人鬼の場合、この現象は一般社会にいる人々より、多く見られる。二十世紀初頭の満月の狂人、アルバート・H・フィッシュがマゾヒストであったことは資料に残っている。自己の性器に鎖陰や自己拷問を行っていた。おそらく、彼の場合は複雑な素質がその殺人衝動と密接に絡み合っているのだろう。段階は不明だが、この場合、確実に倒錯は起こっている。ここでもまた慈善と殺人の協同が起こっているのである。

次に目を移して、女性と男性の違いを見てみよう。私はここで視野を広げ、殺人鬼だけに限らず、あらゆる臨床報告を用いることにする。人の罪悪感とは年を重ねるたびに、暫時うすれゆく。その原因は、人間の成長期が短いことにある。人は思春期にその全ての能力を発揮し、あとは独創性のない人々が残るだけである。また思春期とは、精神異常の兆候を示す時期でもある。もちろん、そこには罪悪感も関係してくる。もし人が極度の罪悪感を覚え、右往左往するとき、その時にその人は精神異常の発作を起こす様態を示す。これは精神病院の思春期外来患者を観察すれば分かる。なぜ、罪悪感が思春期に起こるかと言えば、それは一言に尽きる。人間とは生来、利己心の塊である。その様な生物が他人の事を激しく顧慮する時には、当然副作用が起こる。それが罪悪感である。頭を抱え込み、うなだれる人々。彼らの心中は他人への配慮でいっぱいである。しかし自分の事も尊重したい気持ちはある。この二つの要素が激しく拮抗し、精神病に似た様相を呈するのである。これが罪悪感を強く感じる司教や牧師にも通用するのは言うまでもない。司教のエラスムスがその著書「痴愚神礼賛」であけすけなく述べている通り、「彼らは何に頭を悩ましているのか? 全ては痴愚神のおかげで万事うまくいっているではないか?あけすけなく自分の弱さを露呈し、それに悩む。そんな馬鹿げた事に頭を悩ます必要などない。」と、彼は述べている。またそれとは反対に聖アウグスティヌスは、「告白」の中で神に必死に懺悔をする。これは彼、生来の性格も手伝って、強い罪悪感を抱かせたのである。周りから見て、それほど悪いことをしていなくとも、そこに罪悪感を覚える。つまり罪悪感とは主観的なもので、他人と一線をがいしているのである。しかしここで重要な分かれ目が生じる。私が前に述べたマゾヒストと聖者との分かれ目である。強い罪悪感を抱いたものは、それを自分自身の中で昇華させるか、それとも外向的に詐欺や殺人を行う。これはまさに紙一重なのである。アウグスティヌスは神に帰依し、また様々な見識と洞察を用いて、強い罪悪感から開放された。その反対に鬱屈とした魂の持ち主は強い罪悪感に耐え切れず、ついつい犯罪にはしる。やはり、そこでも倒錯が起きるのである。中世ヨーロッパにおいて、カトリック教会は絶対的な権力を持っていた。魔女狩りや笞刑が頻繁に行われたのはこの倒錯のせいである。彼らは自らの罪悪感に耐えかね、過激な行動をしたのである。

また行動心理学と遺伝学は密接に連関している。人々はあくまで環境素因の影響を遺伝素因の影響より大きいと考える。しかしこの考えが明らかに間違っているのは、言うまでもない。ゴットシャルト、ライトらの報告を見ればそれは一目瞭然である。さらにこれは犯罪心理学にも適応される。数少ない資料の中、殺人鬼たちの両親の様態を分析すると、彼らの中にもぎょしがたい性癖、行動が見られる。子供の虐待、性行為の奔放性などがそれである。この親たちに育てられた子供たちにも同様の現象が見られる場合が多い。虐待されていた子供が成人し、子供を持った時にしばしば虐待をするのも遺伝学上の重要な見識である。

そしてもう一つのことも考慮しなくてはいけない。それは先入観である。幼少期に体験したある出来事が後年にいたっても、なお永続的に効力を及ぼす場合がある。先入観とは強烈な情動作用を伴った概念、もしくは表象によって引き起こされる。それに伴い情動作用の激しい女性の場合には特にこの現象が頻繁に見られる。したがって、先入観には第二次性徴と性格が関与することになる。女性と男性の性別の違い、もしくは感情的な性格を持った人物であるか、などによって先入観の及ぼす範囲は決められる。ただし、これは自由連想などの精神分析によって、厳密に調査されなくてはならない。またここで記憶の問題も絡んでくる。女性の場合、非常に語学に達者な人が多い。この要因として挙げられるのはやはり情動作用である。良く悪くも記憶に関係してくるのは、情動作用なのである。もちろん、先入観も記憶の下位に位置づけるべきであろう。記憶を効率よく行うためには情動作用の力を借りるのが、一番手っ取り早い。脳側頭葉がこの情動作用を受け持っている。そして海馬は一番早くに情報を確かめる役目を担う。直観し、それが海馬に届き、またそれから脳側頭葉や前頭葉などをかけめぐり、情報を処理するのは周知の通りである。
脳損傷をおったある患者は以前とは違った様態を示すようになった。彼は脳側頭葉を損傷した。そのため、以前よりも口数が少なくなった。むろん、笑うとか怒るとかの情動はほとんど見られなくなった。これは精神医学でもなく、心理学でもない。単なる器質疾患を基に彼の行動は著しく後退し、なおかつ傍目から見て人格のゆがみを垣間見る事ができるのである。脳科学の観点から述べると、彼の側頭葉の第一次運動野に著しい欠損があった。側頭葉と第一次運動野の欠損で彼は平静から無口であったが、事故後はさらに無口になり、まともな会話すらできなくなっていた。これは運動作用をつかさどる第一次運動野の欠損によるものである。またもや我々はここで一つのテーゼに舞い戻る必要がある。それは連続殺人鬼の両親による激しい虐待の一部始終である。確認できる資料の中でもごくわずかだが、幼少期に頭を強く強打されるなどの脳欠損につながる、様々な資料はある。遺伝学上の性癖とその器官欠損がどれほどの割合で作用していたかは今後の研究に期待するものである。だがここでも重要な遺伝学的な見識に触れなくてはならない。それは先入観と殺人鬼、独特の性癖である。ここで一つ例を挙げるとする。エドムンド・エミール・ケンパーはアルコール中毒の母親から虐待を受けていた。その後、彼は祖父母を殺害し、刑務所に服役した。出所後、彼はまた女子学生のヒッチハイカー六名を殺害し、四肢や頭部を切断し、屍姦した。またさらに母親の頭部を切断し、同日たずねてきた知人の女性、二名を殺害し、それを切断し、食べた。

彼の行動は確かに正常の範囲を大きく逸脱している。しかしこの中には重要な知見が含まれている。おそらく彼はパラノイアの症状を有していたのだろう。さらにはサディスティックな行動、頭部の切断や、カニバリズムの兆候が見られた。そしてここには先入観が大きく影響している。前にも述べたとおり、幼少期の先入観とは後々まで尾をひく。彼の場合もそうである。女性に対する嫌悪の念が、憎しみに移行し、殺人を犯した。白昼夢とは、研究者や哲学者にも多く見られる。けれども、彼らの場合はそれが科学的、文学的に昇華されるため犯罪に至らない場合が多い。そのもっとも良い例はニーチェである。彼はその内心奥深く秘めた人々への反感や、女性への嫌悪を哲学的、詩的に昇華させている。反対にその昇華が正常に行われない場合、偏執的な傾向を持った異常者が増えるだけである。だがここでも遺伝的な解釈をなおざりにすることはできない。確かに連続殺人鬼の中に異常な性癖や嗜好を持つものは多い。これはすでに統計で出ている。しかしながら、先入観の影響が大きい事も確かである。フロイトが述べたように、「子供は父親に対して、敵意を抱き。反対に母親に対しては恋慕の情を抱く」のである。もし父親がいない場合、代償として全ての思考が母親に向けられる。したがって、連続殺人鬼は生来上の性癖と、先入観が混ざり合った、渾然とした状況におかれていた、というのが正論である。したがって、ここに殺人衝動の一つの命題が生じる。殺人衝動とは、まず遺伝的に決められている。それに移民の激しい国では大量殺人鬼が生まれやすい。その理由として、挙げられるのは様々な民族が集まると、突然変異が起き、それが不十分な場合、彼らは殺人を犯すのである。また女性と男性を比して男性が殺人鬼になる確率は女性の場合より、非常に多い。これは第二次性徴が関係してくるのであろう。好戦的な男性は女性より、殺人鬼になる場合が多い。また女性の連続殺人鬼でも男性化への移行が少なからず、認められる。ここでは性倒錯が見られる。ルソーはその自伝で自分の女性化への見識を如実に表現している。これらから導き出せる帰結は二つある。まず殺人衝動とは主に遺伝的なものであり、その下位に先入観が存在する。そして殺人衝動とはある一定の個人に向けられるものではなく、人類全体に向けられるものである。ことに連続殺人鬼たちは、みなそろって、交友関係のない人物を襲撃する。また先入観の場合は、女性か男性かに向けられるものであり、性癖とは連関しない。したがって殺人衝動とはこうなる。遺伝的に決められ性癖を基に、殺人鬼は誕生する。その後、後天的に強い先入観を秘めたものは過激に犯行を繰り返す。しかしあくまで彼らの性癖を見逃してはならない。殺人鬼とは生来上の遺伝によってほとんど決められており、その結果犯罪を実行するのである。これは先験的な見解である。ほとんどの精神科医は、犯人の動機を調べる。だがこれは間違いである。遺伝学上、環境素因より遺伝素因が強い。だから、連続殺人鬼は自分の欲望の赴くまま犯行にひた走るのである。

殺人衝動とは先験的なものであり、それを抑止するのは難しい。殺人鬼は人類の変種である。したがって、彼らの心中を推し量ることはできない。だが彼らの殺人衝動を検証することはできる。それは精神分析の役目である。

主な殺人衝動を調べるには、フロイトの用いた自由連想が有用である。目に映るのは医者だけにし、あらゆる外界との関係を拒絶した状況でその実験が行われるのが望ましい。例えば、かんぱついれずに自由連想を次々と行ってゆくと、ある一定の性癖や先入観の萌芽が見られる。例を出せば、女性という表象に対して、ある人物は慈愛のこもった人物であると答える場合がある。また反対に憎しみの矛先を女性に向け、「憎い」と、答える被験者もいる。これらの諸見解から導き出せるのは、先入観が多い。もちろん、その背後に遺伝素因が隠れているのもなおざりにはできない。しかし、それでも遺伝素因の検証より先入観の検証が行われる場合が多い。第二次大戦中、ヒトラーの精神分析を行ったランガーの場合も同様である。むろん、先入観に重きをおいて研究をする事は悪くはない。だがそれが唯物論的な見解に傾きがちなのは、言うまでもないのである。ヒトラーの場合もそうである。私の所見では、ヒトラーは指導者として非常に優れた天分を持っていた。しかし幼少期から青年期までの間に起こった諸事情により、彼は自己を「過剰保障」した。その結果、自分はドイツ国民の頂上に立つ偉大なる救世主という誇大妄想にとりつかれ、ドイツ国民を啓蒙し、偉大なるドイツ帝国を再建しようともくろんだ。そして民族の純化を志し、ユダヤ人の大量虐殺を行ったのである。結果から述べれば、彼は優秀変質者であり、世の寵児を志したが、それは早晩、連合国によって打ち砕かれた。また、彼は先入観として、女性に対する激しい嫌悪を抱いていた。これは彼の幼少期に起こった両親に対する嫌悪から生じたものである。彼の父親はいくぶんいかめしく子供に対して、圧政的であった。また彼の母親は子を擁護しつつも、父親にいつまでも寄り添い、ヒトラーはそれに反感を覚えた。この見解はランガーの見解と一致する。しかし私はここでもう一歩、歩を進める。ヒトラーの両親の性格からして、生まれつき彼には専制君主的な態度を装う風体が見られたはずである。それは過度の虚栄心を伴い、たとえ人生の道すがら、困難に出会おうとも決して彼はその態度を変えなかった。これは彼が行った頽廃的美術の廃絶、これは彼の過度の虚栄心と精神的劣等感を基にしているのだが、をとくと観察すれば分かってくることである。さらには死の間際にひんして、自分の女秘書と服毒自殺をした点も見逃せない。これは女性を愛したいが、それと同時に女性に対する蔑視をも抱いていたのが、原因である。この現象を精神科医は「両面価値」と呼ぶ。一つの対象に相反する印象を有することを「両面価値」と呼ぶのである。

次に目を転じて、中世の指導者たちを見てみよう。マクシミリアン・ロベスピエール、彼もまた専制君主的な思想を持つものであった。だがヒトラーとは違う点がいくつかある。彼はルソーを敬愛し、ルソーの本を聖書として愛用していた。そして傍らには常に死刑使が立っていた。幾人もの人々を理想国家のための糧として、用い、彼はなんら害のない人々を虐殺した。ここでは現実と理想の乖離が見られる。彼は友人をひとりも作らず、いかなる賄賂も受け取らなかった。その事を鑑みて、当時のナポレオンはこう述べた「賄賂や功利主義に堕さない彼の態度は尊敬に値する」と。だがその理想国家樹立もむなしい灰塵と化し、彼は自らが助かる道があったのに、それを拒み、死刑台の上に頭をたれたのである。

反対にビスマルクの場合はその指導力と有能さをかわれ、当時の政治の指導者として、存分に力を発揮した。けれどもここで間違ってはいけないのは、ビスマルクの性格である。彼は非常に過敏で重要な会議の後には決まって、嘔吐を繰り返した。さらには彼の父親は変人で、精神病者であった。母もそれに追随する形で神秘的なできごとに傾倒する性質を持ち合わせていた。そしてその危うい両親から生まれたのが、ビスマルクなのである。複雑な綾をなした遺伝構造の稀な産物、それが天才なのである。天才と狂気とは密接に連関しており、何人もそれを否定することはできない。また連続殺人鬼の場合もそうである。社会的にはすこぶる有害だが、いったんそれが才能によって、昇華されると、それは有益なものになる。有名な殺人鬼、テッド・バンディは高い知能指数を持ち合わせていたが、それを文学的には昇華できず、殺人を犯すに至った。したがって、ここには一つの命題が関係してくることになる。それは性癖や嗜好の問題である。文学者は自分の映し鏡を文章に仕立てる。もちろん、そこには性癖や嗜好の問題が絡み合ってくる。女性的な傾向を示す文学者の文体は華麗である。

ルソーのエミールなどはその良い例である。だがほとんどの哲学者は女性を忌み嫌う。ニーチェの箴言にあるとおり「哲学者で結婚したものは、喜劇の部類にはいる。」のである。またニーチェはその著書「ツァラトゥストラ」で様々な意見や真理を述べている。例えば、醜い男の章で、彼は同情に対する激しい嫌悪をあらわにしている。これは自己の精神性劣等感によるものである。弱い生き物と自負している人物が生活力に乏しく、その人生行路で困難に出会うと、突如としてその攻撃性を表す。これは窮鼠猫をかむ、ということわざと同様の意味合いである。彼は殺人欲を文学的に昇華させ、なんとか自己を保っていたに過ぎない。したがって、ニーチェの場合はその殺人欲は文学的、哲学的に昇華され、それが周りの人々に害を及ばすことはなかった。

多くの殺人鬼の場合、そのほとんどは非常に高い知能指数をようしている。私が前に述べたとおり、能力と才能は区別すべきである。いくら高い知能指数を持とうとも、それを理性で抑制するのはほとんど不可能である。主に脳幹は性癖の源であり、それに追随して前頭葉は働く。自律神経系は脳幹がつかさどっている。前頭葉とは二の次に役目を果たすだけである。だから、我々は考えることを人間の特権として考えるのは不合理であることになる。甲状腺異常の患者は身体が未発達のまま、人生を過ごす。ダウン症の患者は思考がおぼしく、言語能力や種々様々な能力に乏しい。しかし彼らの中には一般の人々が持ち得ない能力が秘められていることがしばしばある(これに二十一番目の遺伝子が関係するのか?)。私が診たダウン症の患者たちの中には、特に女性の場合、著しい音楽的才能を有するものがいた。そして正常な恋愛に対する興味、食欲は常人と変わりなかった。したがって、彼らの場合には、このような見解が有用である。脳幹に異常は認められず、そのほかの器官、主に前頭葉の先天的な遺伝欠損によって、彼らは宿命的にその罪を背負っているのである、と。

また殺人衝動に関する幾分かの例を出しながら説明を進めるとする。有名なイギリスの切り裂き魔についてはみなが周知のことであると思う。妊婦の腹を裂くなどの異常行動を彼は犯していた。そしてとうとう最後まで彼は捕まらずにいたのである。現代の心理学者の諸見解では、その当時、ある精神病院に入っていた患者が犯人であるという可能性が高いという意見が出されている。しかしこれはなんらの意味もなさない。なぜなら、過ぎ去った時とは未来永劫戻ってこないからである。そこにメスを入れるという行為を犯してはいけない。我々はあくまで真摯に犯人の殺人衝動の根本を行動心理学に基づいて、検証するだけである。あえてはそれが心理学者、また精神科医、精神分析の役目なのである。

さあ、次に進もう。ジャック・リッパー(切り裂き魔)は異常な行動を確かに犯していた。多数の人々を殺害し、それらを切り刻んだ。これらの出来事は見るに耐えないが、しかし私はここで飛躍して、有意義な見解を述べたいと思う。その当時のイギリスは黎明期にさしかかっていた。これは生物学上の見解で小さな集団が同系交配繰り返したために起こった出来事であるといえる。適度な同系交配とは有意義な遺伝素因を子孫に残す。だがそれが度を越すと、近親交配を呈し、生活力の乏しい人間や異常な人間が生まれやすくなる。そのため、限局された地域で同系交配を過度に続けると、その場所は早晩、頽廃する事になる。この例として挙げられるのは、日本、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアなどの島国である。広い定義を用いれば、島国とは限局された地域であり、なおかつ生物学上、不穏な空気が漂う場所である。また見逃してはならないのは、アメリカなどの移民の激しい国の状態である。生物学上、一定の期間、ある場所に土着する事は必要なことである。しかしアメリカのような国でそれが行えない。したがってアメリカは異常犯罪者を生みやすい状況にあるのである。天才と同じように異常犯罪者もある一定の衰退が原因で生まれるのである。ある優秀な家系が幾分か衰退し始めた時に、天才や異常犯罪者は生まれる。まさに紙一重なのである。社会に有害な人物になるか、それとも天才的な発明をし、人々に貢献できるか、この二重の交錯が天才と異常犯罪者を結びつけるのである。
また殺人衝動には価値観念も関係してくる。執拗にある一定の対象に心酔し、周りの事をすべて自己の価値観念に結合させる。これが価値観念である。また古い言い方を用いれば、価値観念は固定観念となる。植物学者リンケの言葉にあるとおり、「一つの物事に執着し、それに没頭するそれが憂鬱である。かく精神の鋭敏な人は太いペン先よりとがったペン先のようなものである。」一瞬、閃きの後に起こる思想、科学的論証、これらも価値観念の産物である。執拗にある物事に精神の方向が向けられると、それは価値観念となる。もちろん、それはあらゆる対象に向けられる。殺人衝動を有する連続殺人鬼もその例外にもれない。彼らは執拗にある一定の対象者をつけねらい、凶行を行う。ここには人間関係に限局された価値観念が起こっている。価値観念とは危うい面を備えている。もしそれが人間に向けられれば、それは連続殺人鬼の源になる。またそれが文学的、科学方面に向けられれば、偉大な科学者、文学者が生まれるのである。
熱力学の法則を発見したローベルト・マイアーはその良い例である。彼は激しい人生を生きた。学界に自分の論文が承認されず、彼は憤慨した。執拗に紙上に抗議文を送り、彼は必死に抵抗した。しかしその努力もむなしく、彼は宗教帰依に走ったのである。その後、自殺未遂などを繰り返し、彼は精神病院に三回入院した。そしてようやく彼の死の間際にイギリスの物理学者の温情のこもった書簡が発表され、彼の論文は公に認められることになったのである。

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