Wednesday, February 23, 2011

黒人差別

まず、私たちは歴史を振り返る必要がある。ヘーゲルがいみじくも「歴史哲学講義」で、述べている通り、我々は歴史の臨界点に立った時に過去を顧みなければならないのである。差別という問題は、人間本性に根差す劣等感がなくならない限り、到底、なくならないものである。その良い例が、黒人差別である。アメリカの西武時代では、黒人はベアナックル(現在のボクシングの原型だが、当時は塩をすりこんだ素手で、殴り合い白人がどちらが勝つかを賭ける賭博であった)で、人間扱いにもされず、西武時代が終わった後でも根強い黒人差別は消えなかった。全くもって、士道不在なものだが、元々、イギリスからの移民だったイギリス人が黒人を相手に最初の頃は激しく戦ったことも、恐らく、黒人差別に拍車をかけているのだろう。これは、「フランクリン自伝」に詳しい。
もっと、昔に遡れば、古代ギリシャから、黒人奴隷とは存在した。だが、我々はその現状を書物からしか得ることができない。プラトンやソクラテス等は、決して、黒人奴隷を卑下せず、大議会においても公に発言権を黒人奴隷たちは得ていた。無論、ある程度、主人に仕えた黒人奴隷は楔から解放され、自由の権利を勝ち取ることもできたと、古代ギリシャと古代ローマ初期の文献にはっきりと明記されている。何も、ギリシャ人やローマ人にとっては、黒人奴隷が悪いという観念がなかったのであろう。だから、しっかりと賃金も与え、庇護したのである。

では、傍観者から見た日常風景に現れてくる卑下の対象でしかない黒人たちは、どうであろう。それは、散々なものであろう。傍観者とは、あくまで傍観者なのであって、決して、自分の世界に彼らを引き入れて、思考したり、物思いに耽ったりすることは許されない。そんなことになってしまえば、ルソーの本を読み耽って、いつもの規則正しい散歩の時間を忘れてしまったカント先生になってしまう。

さて、本題に入ることにしよう。まず、私はここで、特殊な用語を使うことを前もって、述べておく。権利。私が言ったこの権利とは内在的権利を指す。この権利とは、公法に定められている通り国と個人を結ぶ法律である。この法の有効期間が過ぎるか、もしくは権利者がその法的権利を放棄した場合、それは内在的権利を放棄したことになる。しかしここにおいて黒人の法的権利が放棄されたとしても、そこにはまだ黒人の内在的権利が存在していると考えるのが妥当である。ここで、私は、一つの例として、架空の黒人作家を引き合いに出そう。そのことによって、よりこの議題は深みを増し、人々の関心を引くことになるであろうから。作家の著作権の権利、この内在的権利とは本人の意向を示すものであり、法の名の下には置かれないものである。実定法とは未来に向けたものであり、その意義とは犯罪者を法の名の下に裁き、彼を未来の犯罪抑止のために手段として用い、人々の犯罪傾向を抑圧するものである。これは人々に反対動機を現実に見せ、犯罪に対する行動の格率を規定するという意味である。他方、内在的権利とは、著者の意向であり、彼の思想、名声などを含む権利である。この権利と前者との違いは、人々を法の名の下において抑圧できないということである。この権利を守る法的義務というものは存在しないわけであるから、そこではもっぱら認識面から出る倫理観、すなわち個々人の道徳観がこの権利を守る主題におかれる。だが、大衆にこのような道徳を期待するのは無理であろう。なぜなら彼らを規定するのは黒人たちの意向ではなく、自分の利己心であるから、そこには到底利害関係を超えた思想というものは生まれないからである。古代の賢人たちの思想を自分たちの利害関係のために汎用している例は現在でも山ほどある。これは黒人の占有権を蹂躙する不正である。何故人々は不正を好んで行うのだろうか? なぜなら彼らは他人の利を貪り食う野獣であるからしょうがない。この大衆についての真理は歴史の内在的意義を探ってみれば分かると思う。そう大衆とはいつも獣であると。

世間で頻繁に叫ばれる言論の自由なる物は存在しない。これは日本国憲法における重大な間違いである。確かに思想の自由は存在する。しかしこれが行動となってこの物質界に現象する以上、それは自己の努力、闘争によって勝ち取られる必要がある。彼らはこの闘技場から逃げ出したいあまりに、現実から目を背けた卑怯者である。もちろんこれは意見を発する自由は万人に付随するが、この正当性を勝ち取るためには闘争が必要であるという意味である。
 
 実際このような内在的権利の悲惨な現状を目の当たりにして、黒人の権利の保護強化のため、その法的権利を黒人よりにし、妥当な法的限界を決める方法もあっただろう。しかし、そのような法とはその黒人作家が死んだ後にその黒人作家の権利全てが国に移権されるため非常に高い危険を孕むと言える。この実例は社会主義国のインデックス(禁書)を見ればわかると思う。現在だけではないが、この権利の不法占有は日ごろ行われている。このため妥当案として黒人を含め、不当な扱いを受けている者たちから代表団を作り、その委員長たちが国際委員会を設置し、情報におけるその黒人の内在的権利を守っていく必要がある。だが、この方法も長くはもたないだろう。人が個人の権利を主張し、他人の権利を侵害する性質がなくならない限りは。結局我々は時代の節目に天才が現れ、真の正義を掲げるところを見なくてはならないのである。そのとき初めて我々は現在が人類の栄華ではなく、文明の荒廃だと知るに至る。
「人はそのときに太陽を垣間見る。」そう、初めて空を仰いだ小動物が鷹を見るように。

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